なんで今更ドレミの前?

 

 

「ドレミの前の音楽」と言う企画を考え中・・と言うか、今週末には実践してみるのだが・・
何故そんな事をする気になったのかと言うと・・

 

音楽って何だったのかを見失いそうな自分に対する危機感。

昨今流れている音楽、環境音の不可解。

音の認識は、生活、社会、政治などとも深く関わりがあると思うから。

 

ドレミの前・・

ドレミは音楽の認識に大いに機能しているが、仮の名前に過ぎない。
日本と呼ばれる国も、アメリカも、本当の名前なんて誰も知らない。
皆がそう呼ぶ事で、実体があるように振る舞う。便利だけどね。

よく命名と言うけど、大概の場合、名付けられる事で、命を奪われる感もある。
言葉は、箱に貼られたラベルの様な物かも知れない。
言葉のラベルを貼られた箱を「理解した」と判断した途端、箱は殆ど開けられる事も無くなる。
箱の中身は、入れた時と全く違う物に変化しているかも知れないんだけど。

出来上がった楽器で、出来上がった曲を、出来上がった技術で演奏したとしても、
そこに聞こえるのは、中身の無い箱の様な物だったりする事もある。
箱に中身を入れるのは、各個人の仕事、あるいは思い込みだったりもする。

 

乱暴な言い方だけど、音楽とは「気分」である!と言い切っておくと話が進め易い。
ある「気分」に到達する為の乗り物かな・・なので、音楽その物が、行動を起こす分けじゃない。
お祭り騒ぎの気分、祈りの気分、リラックスした気分、様々だけど。

鬱な人が、元気な太鼓の音を目指す事が出来たら、きっと元気になるだろうし、
落ち着きの無い人が、静かな音楽を奏でる事が出来る頃には、落ち着いた人になるかも知れない。
いずれにせよ、その人の気分が求める心地よさに向かって行く事になりそうだ。

そこには、言語など存在しないだろう。なんせ気分だから。
最高の気分があるとすれば、それは誰かが独占する類いの物じゃない。誰にでも共有される心地よい気分。
これも、乱暴に言えば、その気分は、神と呼ばれる物の気分だろうから。勿論想像だけど。

例えば、政治的な歌は神の気分と、ほど遠い。それが働きかける場は、誰かに対する不満をぶちまける気分、
あるいは、不満の共有者を見いだす気分に到達する可能性が高いから。なので、大概の場合、
その種の音楽は、ガス抜きに終わり、現実に政治には機能し辛い。

誰かを犠牲にする人の気分を、変える可能性があるのは、神の気分だけだろうと言う気がする。
後悔も攻撃される余地も無い共有可能な快楽?

 

話は、変わる。

楽曲として記録された物、例えば楽譜は、ある「気分」に到達した記録であり、再び訪れる為の地図だ。
流れる音楽は、ある気分に誘う灯台みたいな物かも知れないが、
誘うだけで、到達する為の乗り物では無い。それに気づくと、人は自ら音楽を奏でようとするんじゃないか・・な。
仮に、その「気分」の音を、自らが出せた時に初めて到達出来る場がある。
神の気分の大分手前だとしても。

さっきも書いたが、楽曲は単純な一つの音が導いた「気分」に到達する為の詳細な地図かも知れない。
だがいつの間にか、目的地に向かう事以上に、地図を書く技法に注目が集まった。
そのうち、誰も目的地が書かれていない事、気付かなくなった。さらには、その必要性すら見えなくなったのかも知れない。

勿論、地図の進化は悪い事でじゃ無い。でもまあ、地図が無くても道は探せる。
要するに、楽譜なんて読めなくても音楽は出来るってこと。

 

気持ち良い音

人の気分を左右する音は、そこいら中に転がっている。

例えば、木片をぶつけた音。個体によって随分と違う音が出る。
甲高い音や曇った音、乾いた音や湿った音。
素材、大きさや形、質量、木目の向きによって、
また叩く側、バチのような物の質量や堅さ、叩く強さによっても音色は変わる。
好む音を選ぶ分けだが、その時点である程度その人の人柄や心理状態が反映されている。
求める音は、その人の気分、その時点での気分による。

殆どの人が、良い音と認める音は、ある指向性を持つ事になる。
その方向に向かい、楽器は進化した。

音の高さ、周波数も、音色の違いの一つに過ぎなかったかも知れない。
複数の音を組み合わせる。同時に出す、間隔を開けて出す。
これにも多様な心地よい組み合わせが、見いだされる。
先の初歩的な楽器の音色の価値も、この辺りで変化が見られるかも知れない。
単独では、面白く無い音が、他との組み合わせ方次第で化ける可能性があるから。

強弱、間隔、音の高さなどの組み合わせの中に心地よい物が見いだされる。

笛や擦弦など、延びるが作れる様になると、様々な干渉が発見され、
当然、心地よい干渉が追求される。

ある「気分」に到達する努力が繰り返される内に、目的がすり替わるかも知れない。
だと
より高い音、長い音、大きな音、複雑な組み合わせなどが、求められ、単独の音の心地良さ、
機能、目的だった「気分」は、大分忘れられる。

音楽の基本は、与えられた状況で、どれだけ目的の「気分」に到達出来るかの訓練みたいなもので、
ドレミや慣例の習得では無い。

一つの木片を叩いて、元気な気分や落ち着いた気分に到達する事も可能だと思う。
他の木片なら更に、目指す気分に近い音が出るかも知れない。
誰かがそう教えると、その木片が欲しくなる。

その木片を作りあげた人は、到達したい目的の気分が明確だったのかも知れない。
以前の木片に比べ、随分と目的に導く機能を果たす事になるだろうけど、
筏がボートになった様なものかも知れない。勿論、ボートの方が良いけどね。

最近知ることになった八丈太鼓の世界。故奥山熊夫と言う人、
この単純な図式を知っていたかの様に歌い、太鼓を叩いていたご様子。

そう言った意味で、音楽療法って言葉が、不思議に思える。
ドレミの前の音楽を続ける事が出来れば、療法なんて言葉を使うまでも無く、
音楽って、そういう物じゃないっけ?と思うから。
あえて療法にしなければいけない位、ちゃんと機能しない音楽だらけって事なのか?

演奏に関わらず、音を出す事は、周囲の人間にも大きな気分的影響を与える。
たとえ無自覚だったとしてもだ。

こうしている間にも、冷蔵庫のモーター、蛍光灯、時計、時折酔っ払いの声、
救急車のサイレン・・何かしら音が聞こえている。

たまにだが、ライブなどで音楽を聴いている人に、話しかける人を見かける。
演奏している人の前で、他の楽器をした鳴らしたり、CDをかけたり、大声で話す人を見かける。
不満をぶちまけている分けじゃなく、不安を感じるって事なんだけど。社会の縮図のようで。

取りあえず、それはドですよね?とか、バッハですよね、とか、ストラディバリですよね・・とか、
そういう耳じゃなく、「気分」を聞き取る耳を作った方が、ずっと良い。

 

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