スタジオMで楽しもう!

メビウスの企画で開催されたスタジオ内 オープンマイ。多様なジャンルの人達が集まり、永田シェフの料理を味わいつつスタジオを盛り上げてくれました。

広告

大久保セプコン2018

okubosepcon2

2001年ニューヨークでのテロ、翌年からグランドゼロで開催されたセプテンバーコンサート。
その3回目に参加した歌手の庄野真代さんが翌2005年、自身が代表を務めるNPO「国境なき楽団」を軸に日本各地の様々な会場での同時コンサート開催を呼びかけた事に始まりました。楽団は、その後10年間、呼びかけ・広報・取りまとめを行ないました。運営上の事情もあり、セプコンはそれぞれミュージシャンに委ねられました。

私は日本でのセプコン第一回から「杉並区蚕糸の森公園会場」の責任者&出演を続けましたが、杉並区の公園利用許可が取れなくなった事を機に会場を大久保に移しました。会場には、「ルーテル東京教会」礼拝堂やロビーをお借りしたり大久保駅周辺の店舗や駐車場スペースをお借りし、多数のミュージシャンが移動して演奏する形式のライブ、新宿リサーチパーククリニックの駐車場等、屋外の開催も試みました。屋外の開催は、近隣からの苦情を招き3年で頓挫、その後、ネパールレストラン「ナマステギットガザール」での開催など、大久保では今年で8回目となります。

2018の会場はこちら→「東京ロディクラブ」JR山手線 新大久保駅徒歩5分。
改札を出たら目の前の通りを右、ひたすら直進、ルーテル東京教会の先です。
https://tabelog.com/tokyo/A1304/A130404/13192083/

 

 

 

 

「祈りの音冬の音」無事終了。ありがとうございました。

寒い中、足を運んで下さった皆さんに、まずは感謝です。本当にありがとうございました。

ゲスト参加に応じてくれた照代さん・古屋さん、

準備期間の不十分な中、コーラスで参加してくれた、
まゆみちゃん・よねやま・絵里チャン・マイミーさん・マリさん・ミシェリン・大田さん・
栗田さん・増田さん・青木さん・大田さん達を紹介してくれた詩子先生、
ありがとうございました。

シリーズのチラシデザインを引き受けてくれたジン君、ご厚意で色々とお力添えしてくれる
ルーテルの石井さん、毎度、音響/鳴海さん・増田さん・
あらゆるお手伝い/永田君・小西君・まやさん・智ちゃん
もえちゃん・んでハスキーさん・・毎度の事ながらお付き合いありがとうございました。

んでレギュラー出演者/がんちゃん・塩高さん・松尾さん・ブンブン。
大勢の皆さんにお付き合い頂いて幸せ者でございます。

コンサートイベントを作る中で、単に自己満足で終わっていなく、
皆さんが各、何かしら持ち帰ってくれていたら、また、新しい繋がりが生まれていたら
・・嬉しいよなぁ・・

言語・ 名・文字・声・音 アイヌ 

 

その昔、音楽的な興味からアイルランドを旅しました。

道路標識には、ゲール語の文字、その下に小さく英語表記・・
たまたま泊まったB&Bの主は、「妻はゲール語が話せるし子供達は学校で習っている。
私はゲール語を話せないから、妻と子供が内緒話を堂々としているんだ・・」
と冗談まじりに話していました。

支配しようとする側は、名前を奪い、それを取り戻す事が支配された側の誇りを取り戻す事になるのか・・かつて日本軍も海外で日本語を強要したよな・・そんな風に思いました。
でも国内でも、そうだった事に思いは至りませんでした。

アメリカと言う名前は、スペインだったか西洋の人の名前由来です。
西洋が新大陸と呼んだ場所は、そこに住む人にとって、全く新大陸ではないしアメリカと言う呼称も後付けに過ぎません。

北海道の地名、そもそも北海道と言う呼び名・・古くは蝦夷地ですが、いずれも日本人の呼び方、アイヌは「アイヌ・モシリ」「人間」の「静かなる大地」と呼んだそうです。

現北海道の地名の8割はアイヌ語に由来するそうですが、アイヌが文字を持たない為、
音に対して無理矢理、表意文字を当てた結果、本来の意味とは全く関係のない印象を作る事になったようです。アイヌの地名は、その土地の特徴を現す名前になっており、極めて有用性の高い情報を持っていたと考えられます。

例として、札幌(乾いた大きな川を意味するサッ・ポロ・ペツ)・稚内(冷たい飲み水の川を意味するヤム・ワッカ・ナイ)しかしまあ、全く違った印象になり、意味不明な名前になった事に疑いの余地はありません。

一部、アイヌ語の音ではなく、意味から名付けられた地名もあるようです。
大沼などは、大きいポロ&沼トの意味を漢字で表し、発音は全く別になったようです。

ひどい話・・と思うのですが・・

実際に明治政府は、アイヌの生きた土地を国有とし、狩猟権、独自の言語を奪ったわけです。
同化政策と呼ばれますが、地名のみならず、アイヌ達にも日本語の名前を強要します。

100年以上経過した今日、もはや、アイヌ語だけで生活出来る場所は、どこにも無いと思います。

祈りの音 冬の音

「かしこ」と言うCDを作り、今年4月からルーテル東京教会で四季毎にコンサートを企画しています。(実際にはタイミングがズレてますが・・)

次回は2018年1月31日 「祈りの音冬の音」と題して、アイヌの人々の言葉と音楽をモチーフにしたコンサートになる予定です。

「かしこ」は「我らをこの地に住まわせたまえ」という歌です。

月や火星の土地を買う・・その感覚が、私には分からないのですが・・・
そもそも誰から買うのだろうね?そう考えると、土地だって私の物と主張する根拠が分からない・・と思ったりもします。

震災、原発事故や基地問題、領土問題、様々なトラブルの根っこには、少なからず土地はいったい誰の物なのか?が絡みます。
所有の根拠は、歴史のどこかで様々に作りあげられた物語で、集団的な思い込みが具現化、実体化今の暮らしを一気に変える事が出来なくても、
再考の必要はあると思うのです。

春は、「兆しの音」と題し、違和感を持ちながら生きる人達の出会いや、そこから始まる変化の兆しを作品にしようと考えました。
夏は「昊の音」と題し、生まれた場所、暮らす場所にどう結び付いているのかを考えました。
秋は、「愁いの音」と題し、土地と結び付いた暮らし、他の地からやって来た人「よそ者」との関わり、肯定的なあり方として八丈太鼓を紹介しながらやってみました。

明治時代、アイヌの人々は国家ぐるみの差別、弾圧を経験し、それまでの暮らし・自然との関わりを続けられなくなった経緯があります。(実際には、もっと前の時代から大きな苦悩があったわけですが・・)

「自然と向き合い共存する感性」それは遙か昔、私達の祖先にも備わっていたのでは無いでしょうか。
その感性は、先住民の言葉や暮らしが消えて行くのと比例するように消滅の危機に瀕しているのではないでしょうか。
「アイヌの声を聴く」は「数千年前の我々の声を聴く」に似ているようにも思えるのです。

 

八丈太鼓に寄せて

wp

 

八丈太鼓について少し書きたいと思います。

日本の民謡など、一般に知られた日本的リズム感とは随分違う演奏だった事に驚きました。
更には、芸能のあり方としても、非常に珍しく優れた物に思えたのです。

八丈太鼓との出会い

11月のコンサートに八丈太鼓をお招きした際、事前に色々と資料を漁りました。
日本の民謡には、あまり興味が持てないままでしたので殆ど無知の状態から始まりました。結果的に多くを学びました。

以前のあるイベントで八丈太鼓の皆さんとご一緒した際、、お客さんを巻き込んでのパフォーマンス、回し打ちと言うらしいのですが、それが、言葉の通じない人達との交流イベントにぴったりな気がして、とても魅力的に思えました。

今回、長山育生氏と言う同郷の友人が今は八丈島に暮らし、故奥山熊雄氏と言う八丈太鼓の伝説的な人物に師事していたと聞きました。その奥山熊雄氏が、東京で公演した際の映像もお借りして拝見。大変驚いたのと同時に「回し打ち」が、単にお客さんを招き入れる形式的なパフォーマンスでは無い事に気付きました。

八丈島とよそ者

歴史上の話は苦手なのですが、八丈島は江戸時代の流刑地として有名なところです。
話によると受刑者は政治犯が多く、階級的には武士などわりと身分の高い人が多かったと聞きました。

これからは想像です。

江戸時代の海路300キロはおそらく苦難の旅、無事到着したとしても、よそ者として暮らす事を思えば受刑者の不安は極まったかも知れません。
ところが、島に到着してみると案外そうでは無かったようなのです。

「沖で見たときゃ鬼島と見たが、来てみりゃ八丈は情け島」歌の文句にあるのですが、これが江戸時代の八丈太鼓、八丈島気質を端的に現しているのかも知れません。

八丈太鼓の由来

大きく2つ唱えられています。一つは流人であった武士達が、禁じられた帯刀に替わりバチを持ち武芸の修行として太鼓を打ち始め、それを島の人達に伝えたと言う説。

もう一つは、当時から養蚕、機織りの盛んな八丈島では、主に女性達によって黄八丈の生産が行われ、主に女性達の娯楽として発展した・・と言う説です。

個人的には2番目の説が、有力だと思いますが、1番目の説にも考察の価値があります。

太鼓を叩きながら歌う文句には、本土各地の民謡が多数取り込まれており、流人達が歌を伝えた様子が伺えます。武士であれ、なんであれ流人と島民の交流の跡と言えそうです。

奥山熊雄さんと言う人

お借りした舞台映像、youtubeにあった昔のラジオ番組音源、こちらは太鼓無し、歌のみもありました。
不思議に思ったのは、歌にせよ太鼓にせよ殆どアクセントが2拍目にあると言う事です。
日本の民謡を歌う場合、あるいは日本人がポップスを歌う場合、手拍子が頭拍に来る事が普通で、洋楽を演奏する場合、ちょっとした障害になることもあるのです。ところが奥山熊雄さんは、8ビートのスネアドラムよろしく2拍目にアクセントを置いて歌います。ROCKなんです。

ショメ節を例にとると、

おきで たときゃ にしまと たが・」「お でみた きゃおにし とみた ・」

前は一般的な手拍子の位置、後ろが奥山さんの手拍子です。勿論、太鼓もこの調子です。これは、通常の頭でリズムを取る方法よりずっと軽快で、推進力が生まれる手法です。
戦後、洋楽が押し寄せた日本で、例えばビートルズが熱狂的に受け入れられた要素の一つです。体が動き、浮き浮きしてしまう感じでしょうか。

※詳しい方に伺ったところ 能は2拍目にアクセントを置くそうです。

いずれにせよ、youtube等で見る限り、殆どの八丈太鼓、民謡継承者の皆さんは、ほぼ奥山さんと反対に叩いています。これが何を意味するのか非常に興味のわくところです。

 

長山くんの話

10年、奥山さんの下打ち(所謂伴奏)をしてきた長山くんから幾つか情報をもらいました。

幼少の頃から当時の老女達に可愛がられ太鼓や歌を覚えた。
奥山さんが正しく記憶したとすれば、江戸時代から裏拍アクセントが島の標準だった事になります。※(殆ど踏襲されていない可能性があり文化的に大きな損失になる危険性がある)

半紙を膝に挟み両脇の下に卵を挟んで落とさない様に叩くと習ったそうです。
それは、女性の所作を教え且つ、盛り上がっても柔和で居る事を教えているのではないか?

楽器(太鼓)を選ばなかった。

こう叩きたい、こんな音を出したいより、そこにある太鼓に寄り添う姿を思わせます。
付き合う相手を選ばず、相手の長所を見出し対応する姿勢に繋がります。

練習する姿は見なかったが、就寝前、仰向けになり太ももを叩いていたそうです。
自分の体が太鼓であるイメージと合わせ、自信が太鼓になりつつ、音を出さずとも響きを感じていたと思われます。

肩に担げるくらい小型軽量な太鼓を持っていたそうです。力まない柔和な性格を思わせます。

身内の不幸があった時も、太鼓を叩くと陽気になれる人だったそです。
気持ちの良い音のイメージを具現化し、自分の気持ちにフィードバックさせる事が出来ていたと思われます。

DVD奥山熊雄の世界から

映像から見えるのは、その陽気な人柄、次いで太鼓を叩く極めて女性的な仕草、その柔らかい流れから生まれるグルーブ、優しいタッチ、芸を見せようとせず、自ら楽しむ態度。
回し打ちの際、ステージ端から参加者を盛り上げる姿勢など、一歩退いて見守りながらも無意識に場を作る事が出来ていました。

江戸時代、奥山熊雄さんのような気質が八丈島に充満し文化を作っていたとすれば、よそ者である流人も、隔たり無く受け入れて巻き込んだとしても何の不思議もありません。

罪人として、忌み嫌われる覚悟をし、或いは理不尽な処罰に対する怒りに震え、望郷の思いなど深い傷心の中、仮に奥山さんが、どんな太鼓でも気持ちの良い音を出すように、その声を聴き、その人に合わせた対応が出来、自らが叩く太鼓で平安な心に導く。そんな八丈島があったと思わせる奥山熊雄の世界でした。

武術の修行としての八丈太鼓

もしあったとすれば、人前で披露する様な物ではなかったと推測出来ます。
修行を盗み見た島の人がそれを真似た・・ならあるかも知れません。

八丈太鼓のグルーブの一つとして「本ばたき」と言う物があります。
他の物より重たいグルーブで、水をかくオールや艪の力の入れ方に似たグルーブです。
私の知っている範囲だと70年代前半のイギリスのロックバンドやジャマイカのバンドに見られるタイプのグルーブです。船を漕ぐ文化がある上で共通しています。

オールを沢山水に沈めれば大きな力が必要になりますし、気合いが入り力強くなる程、重く遅くもなります。この溜まった感じが、気合いが入る!力強く勇ましい!=武士と受け止められた可能性もありますが、武術とは関係なさそうです。

八丈太鼓の神髄?
奥山熊雄さんにとって、八丈太鼓は「相手を思いやり、受け入れ、気持ち良くなって(鳴って)くれるまで辛抱強く叩く、そうすれば、応えてくれる。そこに喜びを見出す!」そういう心得だった。そう思えてなりません。奥山さんは無自覚に、でも確かに日本古来のROCKを演奏していました。八丈太鼓の心得とそれを支えた和製ROCKビート・・案外、よそ者の長山くん、今回の共演で多くを得たと話す柵木さん、八丈島の人達にその誇りを取り戻して頂く立役者になりそうです。