第四弾 アイヌ・音楽その1

1月31日に控えたコンサートの為に書き始めたブログ第四弾です。今回は、少し音楽に寄せてみました。

アイヌの音楽と一言で言うのも乱暴ですが、大概のエスニック音楽が、その言語のイントネーションに由来するか大きな影響を受けながら発展した事を思うわけですが、アイヌのそれは、今ある音源から知る限り、言葉と相まってシンプル且つ美しくもあります。

昭和22年NHKが記録したダイレクトカットのレコード100枚が見つかった・・と言うドキュメンタリーがありますが、かしこまると節を付け祝詞の様に節を付けて語るアイヌについて触れています。http://www.dailymotion.com/video/x533f4u

即興ですから、楽譜を残す必要がありません。これは文字を持たない文化とどこか繋がりがあると思われます。日本の古い音楽、歌詠みと近いか同じ類いの物で、伴奏を伴わない即興歌のような物です。

以前blogで触れたかも知れませんが、楽譜は11世紀頃のイタリアの発明とされています。
中国では更に古い歴史がありそうですが・・

いずれにせよ、リズムや装飾音の付け方や音の揺らぎなど、微妙な違いが、民族、地域、或いは個人ごとに存在し、何かしら意味を持っています。

意味とは、概念的な物ではなく、文字どころか言葉で表現する事も困難で、やっかいな事に、揺らぎ続けます。言葉は、その意味の周辺を彷徨うだけで、決して意味の中心には届きません。まるで、楽譜がそうであるように。

音楽は基本的に、安定と不安定の組み合わせとも言えます。
言葉の意味が理解出来る世界では、言葉その物が安定と不安定を生み出してしまいます。

言葉の無い音楽的な要素が加わる事で、双方が矛盾を起こすことも少なくありません。
近代においては、むしろそう言ったケースの方が多いかも知れません。
安易な洋楽導入の害?なのかも・・・

アイヌの言葉の意味が分からなくてもは、言葉と節の生み出す独特な響きが、十分音楽に聞こえて興味深いものです。

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言語・ 名・文字・声・音 アイヌ 

 

その昔、音楽的な興味からアイルランドを旅しました。

道路標識には、ゲール語の文字、その下に小さく英語表記・・
たまたま泊まったB&Bの主は、「妻はゲール語が話せるし子供達は学校で習っている。
私はゲール語を話せないから、妻と子供が内緒話を堂々としているんだ・・」
と冗談まじりに話していました。

支配しようとする側は、名前を奪い、それを取り戻す事が支配された側の誇りを取り戻す事になるのか・・かつて日本軍も海外で日本語を強要したよな・・そんな風に思いました。
でも国内でも、そうだった事に思いは至りませんでした。

アメリカと言う名前は、スペインだったか西洋の人の名前由来です。
西洋が新大陸と呼んだ場所は、そこに住む人にとって、全く新大陸ではないしアメリカと言う呼称も後付けに過ぎません。

北海道の地名、そもそも北海道と言う呼び名・・古くは蝦夷地ですが、いずれも日本人の呼び方、アイヌは「アイヌ・モシリ」「人間」の「静かなる大地」と呼んだそうです。

現北海道の地名の8割はアイヌ語に由来するそうですが、アイヌが文字を持たない為、
音に対して無理矢理、表意文字を当てた結果、本来の意味とは全く関係のない印象を作る事になったようです。アイヌの地名は、その土地の特徴を現す名前になっており、極めて有用性の高い情報を持っていたと考えられます。

例として、札幌(乾いた大きな川を意味するサッ・ポロ・ペツ)・稚内(冷たい飲み水の川を意味するヤム・ワッカ・ナイ)しかしまあ、全く違った印象になり、意味不明な名前になった事に疑いの余地はありません。

一部、アイヌ語の音ではなく、意味から名付けられた地名もあるようです。
大沼などは、大きいポロ&沼トの意味を漢字で表し、発音は全く別になったようです。

ひどい話・・と思うのですが・・

実際に明治政府は、アイヌの生きた土地を国有とし、狩猟権、独自の言語を奪ったわけです。
同化政策と呼ばれますが、地名のみならず、アイヌ達にも日本語の名前を強要します。

100年以上経過した今日、もはや、アイヌ語だけで生活出来る場所は、どこにも無いと思います。

何も知らなかった・アイヌのこと

今回のコンサートの為に、ある程度ですが、アイヌについて調べました。主には、youtube等からの音源、ドキュメンタリーフィルム、イザベラバードの本の解説・知里幸恵の遺稿などです。縄文・イヌイット・北米先住民・明治維新・ネットサーフィンのごとく、興味は連鎖し終わりは見えません。それ以外にも長いこと感心を寄せていた物とも随分繋がります。

子供の頃、家に鮭をくわえた小さな木彫りの熊がありました。
父か祖母か忘れましたが、アイヌと言う言葉を初めて聞いたのはその時かも知れません。

小学生だったか、知床旅情と言う歌が流行、歌詞の中にあるラウス・ピリカ・・と言う
言葉が、日本語に思えなかったのを覚えています。

まあ、実際、日本語では無かったわけですが、その際、ピリカは、アイヌの美しい娘の事だと
父から聞きました。

※調べるとこんな話も・・・

(歌を作った森繁久弥は2番の歌詞にある「ピリカ」(本人はアイヌメノコ=若い女性の意味のつもりで歌っていた)が羅臼地方で「ホッケの幼魚」の意味で使われることを知り、気にかかっていたという)

高校生の時、観光で白老を訪れ、アイヌの人達と初めて遭遇する事になりました。観光施設化していて、アイヌ達は、その民族衣装をまとっていたと思います。顔つきなど魅力的な風貌ではありましたが、その場は、陰気で寂しく、長居したくない空気だった印象があります。

帰りの青函連絡船、その甲板で木彫りの熊を掘る初老のアイヌと出会いました。
何を話したかは覚えていませんが、その手作業と横顔に見入っていた事を覚えています。

上京し、大久保辺りに根付いた頃、近所にあった寿司屋で働くアイヌの青年と親しくなりました。優しい性格と、潤んだ様な優しい目がとても印象的な人でしたが、ある日、常連客から、ひどく差別的な発言を受け、非常に悲しんでいる様子を目にしました。しばらく後、彼は店を辞めてしまい、二度と姿を見る事もありませんでした。その時に初めて、アイヌ差別が在ることを知りました。

今回のコンサートで、特に差別問題を取り上げるつもりはありませんが、アイヌを知る過程において避けては通れない問題である事もまた確かです。その辺りの情報は探す気さえあれば、ネット上にも多数あります。

では、何故アイヌなのか・・ですが、私、私達の社会が、とっくの昔に置き忘れた大切な物を、彼らはつい最近まで大切に守っていた、或いは今も守ろうとしている。そう感じる事によります。

私にとって、このコンサートは、アイヌを学ぶ、アイヌに学ぶ、物でもあります。是非、ご一緒にいかがですか?

 

 

 

うぽぽとムックリ体験

大久保でアイヌ音楽体験「うぽぽとムックリ」※「うぽぽ」アイヌ女性達の輪唱。「ムックリ」アイヌの口琴です。(写真左)
12月23日土曜日午後3時から料金はカンパ制、まあ無料も可、所得に合わせお願いします。ムックリは希望者に500円で販売します。

講師はアイヌ文化継承者であり歌い手、ムックリ、トンコリ奏者 次回コンサートのゲスト、宇佐照代さん。(写真右)お店の入り口です。
宇佐照代さんの経営するアイヌ料理のお店「ハルコロ」食べ物&持つで食べ物に困らないの意だとか・・はスタジオから徒歩5分ほどにあります。
美味しい北海道の食とBGMはアイヌ音楽が楽しめます。体験後、ご一緒にいかがですか?

最近漫画の世界で注目が高まっているらしいアイヌ文化。
世代によっては、知床旅情の歌詞にあるピリカ、ライブの店コタン、漫画のカムイ・・などある程度聴いたことのあるアイヌ語もあります。

昨今、テレビなどでやたらと外来語を使うので何で皆が知っているのか?とても不思議になる事も多い。例えば「コンセンサス」・・大まかに「全会一致」らしいのだが、そう言えば良いじゃん・・と思ったり「コンセントにプラグをさし込む」の略か?と言いたくなったり・・

まあ、実際にはニュアンスが日本語に無いので訳せない・・と言う声も聞こえて来そうだが、なんとかしろ!と思ったりもする。日本は、そうやって何でも取り込み、入れ替えてしまう文化があると言っても良い。

明治生まれの人でも、「リヤカー」や「ミシン」と言う言葉を使っていた。外来語の意識無く使って居た人も多い気がする。元々日本に無かった物は、無理矢理日本語で言う必要も無いのかも知れないが・・・例えばリヤカーだが、荷車はあった。リヤカーと大きく違うのはどこなのか?チューブ入りのタイヤや鉄製の骨組み? まあいいや・・

漢字の入って来た時代も、こんなんだったのか?と思ったりもする。
英語になって少し良かったと思うのが「トイレットペーパー」最近「便所紙」と言う言葉を聞かない。英語の方が少し臭わない感じがするもんね。

母親を呼ぶのに我が家は「かあちゃん」だった。最近は、そこいら中「ママ」だが、あまり好きにはなれない。こうやって日本語は侵略されて行く・・まあ、お母さんが日本語なのか知らないが・・

アイヌ語でお母さんは「ハポ」と言うらしい。なんか可愛らしい。アイヌの文化を残す意味でも、出来れば子供達に「ママ」と呼んで欲しくない。

2018年1月31日「祈りの音 冬の音」

「祈りの音 冬の音」日本福音ルーテル東京教会 礼拝堂

2018年 1月31日 水曜日 18時30分開場 19時開演

前売り2500円 当日3000円(全自由席)

チケット予約・お問い合わせ スタジオM 小二田 090-6471-5290
先着順、限定数になりますが、邦楽ジャーナル・購読者プレゼント(5枚)今田新聞店・購読者プレゼント(10枚)あり。

出演は、箏/内藤眞代・薩摩琵琶/塩高和之・篠笛龍笛/松尾慧・パーカッション/高村BUN太・ギター作曲/小二田茂幸に加えアイヌ文化継承者、宇佐照代さん、近松など古典語り文化・北米先住民の語りにも詳しい古屋和子さんをゲストにお迎えしてお贈りします。

キーワードは「自然と人」「音と言葉と文字」です。詳しくはブログに書いて行きたいと思います。

4回に渡り開催する今回のシリーズは「邦楽」と「洋楽」の違いやそれぞれの初期の姿などを思いつつ、学びつつ作品を作ってきました。基本は、私の考える「自然」であり「所有の物語」であり、人間が最初に聴いた「言葉」だったかも知れない「音楽」です。

西洋の発明?によって音楽は、ほぼ1オクターブ12音から作られ演奏されます。
楽譜と言う文字化?から取りこぼされた音の世界は、未だ世界中に生きていますし、その周波数が出せないピアノの演奏にさえ、実は大きく影響しています。
ドレミと命名され、編み出された西洋音楽の手法は、無数にある音楽の手法の中で、最も合理的だったかも知れませんが、手法の一つに過ぎない事もまた確かです。

文字を持たなかった先住民の一つ、アイヌの人達は歌うように語ります。
単語の一つ一つが魅力的な音、響きを持ちます。これもまた音楽の手法かも知れません。

                                               「Sirokanipe ranran pishikan  」

アイヌ神謡集の冒頭の1フレーズです。どんな意味で、どんな節なのか・・検索するか当日コンサートにおいで下されば分かりますよ~!

 

 

 

 

祈りの音 冬の音

「かしこ」と言うCDを作り、今年4月からルーテル東京教会で四季毎にコンサートを企画しています。(実際にはタイミングがズレてますが・・)

次回は2018年1月31日 「祈りの音冬の音」と題して、アイヌの人々の言葉と音楽をモチーフにしたコンサートになる予定です。

「かしこ」は「我らをこの地に住まわせたまえ」という歌です。

月や火星の土地を買う・・その感覚が、私には分からないのですが・・・
そもそも誰から買うのだろうね?そう考えると、土地だって私の物と主張する根拠が分からない・・と思ったりもします。

震災、原発事故や基地問題、領土問題、様々なトラブルの根っこには、少なからず土地はいったい誰の物なのか?が絡みます。
所有の根拠は、歴史のどこかで様々に作りあげられた物語で、集団的な思い込みが具現化、実体化今の暮らしを一気に変える事が出来なくても、
再考の必要はあると思うのです。

春は、「兆しの音」と題し、違和感を持ちながら生きる人達の出会いや、そこから始まる変化の兆しを作品にしようと考えました。
夏は「昊の音」と題し、生まれた場所、暮らす場所にどう結び付いているのかを考えました。
秋は、「愁いの音」と題し、土地と結び付いた暮らし、他の地からやって来た人「よそ者」との関わり、肯定的なあり方として八丈太鼓を紹介しながらやってみました。

明治時代、アイヌの人々は国家ぐるみの差別、弾圧を経験し、それまでの暮らし・自然との関わりを続けられなくなった経緯があります。(実際には、もっと前の時代から大きな苦悩があったわけですが・・)

「自然と向き合い共存する感性」それは遙か昔、私達の祖先にも備わっていたのでは無いでしょうか。
その感性は、先住民の言葉や暮らしが消えて行くのと比例するように消滅の危機に瀕しているのではないでしょうか。
「アイヌの声を聴く」は「数千年前の我々の声を聴く」に似ているようにも思えるのです。

 

八丈太鼓に寄せて

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八丈太鼓について少し書きたいと思います。

日本の民謡など、一般に知られた日本的リズム感とは随分違う演奏だった事に驚きました。
更には、芸能のあり方としても、非常に珍しく優れた物に思えたのです。

八丈太鼓との出会い

11月のコンサートに八丈太鼓をお招きした際、事前に色々と資料を漁りました。
日本の民謡には、あまり興味が持てないままでしたので殆ど無知の状態から始まりました。結果的に多くを学びました。

以前のあるイベントで八丈太鼓の皆さんとご一緒した際、、お客さんを巻き込んでのパフォーマンス、回し打ちと言うらしいのですが、それが、言葉の通じない人達との交流イベントにぴったりな気がして、とても魅力的に思えました。

今回、長山育生氏と言う同郷の友人が今は八丈島に暮らし、故奥山熊雄氏と言う八丈太鼓の伝説的な人物に師事していたと聞きました。その奥山熊雄氏が、東京で公演した際の映像もお借りして拝見。大変驚いたのと同時に「回し打ち」が、単にお客さんを招き入れる形式的なパフォーマンスでは無い事に気付きました。

八丈島とよそ者

歴史上の話は苦手なのですが、八丈島は江戸時代の流刑地として有名なところです。
話によると受刑者は政治犯が多く、階級的には武士などわりと身分の高い人が多かったと聞きました。

これからは想像です。

江戸時代の海路300キロはおそらく苦難の旅、無事到着したとしても、よそ者として暮らす事を思えば受刑者の不安は極まったかも知れません。
ところが、島に到着してみると案外そうでは無かったようなのです。

「沖で見たときゃ鬼島と見たが、来てみりゃ八丈は情け島」歌の文句にあるのですが、これが江戸時代の八丈太鼓、八丈島気質を端的に現しているのかも知れません。

八丈太鼓の由来

大きく2つ唱えられています。一つは流人であった武士達が、禁じられた帯刀に替わりバチを持ち武芸の修行として太鼓を打ち始め、それを島の人達に伝えたと言う説。

もう一つは、当時から養蚕、機織りの盛んな八丈島では、主に女性達によって黄八丈の生産が行われ、主に女性達の娯楽として発展した・・と言う説です。

個人的には2番目の説が、有力だと思いますが、1番目の説にも考察の価値があります。

太鼓を叩きながら歌う文句には、本土各地の民謡が多数取り込まれており、流人達が歌を伝えた様子が伺えます。武士であれ、なんであれ流人と島民の交流の跡と言えそうです。

奥山熊雄さんと言う人

お借りした舞台映像、youtubeにあった昔のラジオ番組音源、こちらは太鼓無し、歌のみもありました。
不思議に思ったのは、歌にせよ太鼓にせよ殆どアクセントが2拍目にあると言う事です。
日本の民謡を歌う場合、あるいは日本人がポップスを歌う場合、手拍子が頭拍に来る事が普通で、洋楽を演奏する場合、ちょっとした障害になることもあるのです。ところが奥山熊雄さんは、8ビートのスネアドラムよろしく2拍目にアクセントを置いて歌います。ROCKなんです。

ショメ節を例にとると、

おきで たときゃ にしまと たが・」「お でみた きゃおにし とみた ・」

前は一般的な手拍子の位置、後ろが奥山さんの手拍子です。勿論、太鼓もこの調子です。これは、通常の頭でリズムを取る方法よりずっと軽快で、推進力が生まれる手法です。
戦後、洋楽が押し寄せた日本で、例えばビートルズが熱狂的に受け入れられた要素の一つです。体が動き、浮き浮きしてしまう感じでしょうか。

※詳しい方に伺ったところ 能は2拍目にアクセントを置くそうです。

いずれにせよ、youtube等で見る限り、殆どの八丈太鼓、民謡継承者の皆さんは、ほぼ奥山さんと反対に叩いています。これが何を意味するのか非常に興味のわくところです。

 

長山くんの話

10年、奥山さんの下打ち(所謂伴奏)をしてきた長山くんから幾つか情報をもらいました。

幼少の頃から当時の老女達に可愛がられ太鼓や歌を覚えた。
奥山さんが正しく記憶したとすれば、江戸時代から裏拍アクセントが島の標準だった事になります。※(殆ど踏襲されていない可能性があり文化的に大きな損失になる危険性がある)

半紙を膝に挟み両脇の下に卵を挟んで落とさない様に叩くと習ったそうです。
それは、女性の所作を教え且つ、盛り上がっても柔和で居る事を教えているのではないか?

楽器(太鼓)を選ばなかった。

こう叩きたい、こんな音を出したいより、そこにある太鼓に寄り添う姿を思わせます。
付き合う相手を選ばず、相手の長所を見出し対応する姿勢に繋がります。

練習する姿は見なかったが、就寝前、仰向けになり太ももを叩いていたそうです。
自分の体が太鼓であるイメージと合わせ、自信が太鼓になりつつ、音を出さずとも響きを感じていたと思われます。

肩に担げるくらい小型軽量な太鼓を持っていたそうです。力まない柔和な性格を思わせます。

身内の不幸があった時も、太鼓を叩くと陽気になれる人だったそです。
気持ちの良い音のイメージを具現化し、自分の気持ちにフィードバックさせる事が出来ていたと思われます。

DVD奥山熊雄の世界から

映像から見えるのは、その陽気な人柄、次いで太鼓を叩く極めて女性的な仕草、その柔らかい流れから生まれるグルーブ、優しいタッチ、芸を見せようとせず、自ら楽しむ態度。
回し打ちの際、ステージ端から参加者を盛り上げる姿勢など、一歩退いて見守りながらも無意識に場を作る事が出来ていました。

江戸時代、奥山熊雄さんのような気質が八丈島に充満し文化を作っていたとすれば、よそ者である流人も、隔たり無く受け入れて巻き込んだとしても何の不思議もありません。

罪人として、忌み嫌われる覚悟をし、或いは理不尽な処罰に対する怒りに震え、望郷の思いなど深い傷心の中、仮に奥山さんが、どんな太鼓でも気持ちの良い音を出すように、その声を聴き、その人に合わせた対応が出来、自らが叩く太鼓で平安な心に導く。そんな八丈島があったと思わせる奥山熊雄の世界でした。

武術の修行としての八丈太鼓

もしあったとすれば、人前で披露する様な物ではなかったと推測出来ます。
修行を盗み見た島の人がそれを真似た・・ならあるかも知れません。

八丈太鼓のグルーブの一つとして「本ばたき」と言う物があります。
他の物より重たいグルーブで、水をかくオールや艪の力の入れ方に似たグルーブです。
私の知っている範囲だと70年代前半のイギリスのロックバンドやジャマイカのバンドに見られるタイプのグルーブです。船を漕ぐ文化がある上で共通しています。

オールを沢山水に沈めれば大きな力が必要になりますし、気合いが入り力強くなる程、重く遅くもなります。この溜まった感じが、気合いが入る!力強く勇ましい!=武士と受け止められた可能性もありますが、武術とは関係なさそうです。

八丈太鼓の神髄?
奥山熊雄さんにとって、八丈太鼓は「相手を思いやり、受け入れ、気持ち良くなって(鳴って)くれるまで辛抱強く叩く、そうすれば、応えてくれる。そこに喜びを見出す!」そういう心得だった。そう思えてなりません。奥山さんは無自覚に、でも確かに日本古来のROCKを演奏していました。八丈太鼓の心得とそれを支えた和製ROCKビート・・案外、よそ者の長山くん、今回の共演で多くを得たと話す柵木さん、八丈島の人達にその誇りを取り戻して頂く立役者になりそうです。