アイリッシュの物語

アイルランド音楽は好きである。原因は何か随分考えた。色んな理由があるのだが、
方法論的な部分からは説明出来ない部分のお話し。

漠然とした感覚から好きになり、音律、リズム、独特な装飾みたいな物の習得に努力し、
それを獲得できたとすると、なんだか全てが理解出来たような気分に陥ったりするのかも知れない。、
しかしながら、それは単なる装丁の習得に終わっている可能性もある。

本来、彼らの装丁は極めてシンプル、故に、更なる飾り付けを加える事も容易だ。
例えば、音律だけ捉えると、コード付けの可能性は幾らでもある事になる。
いたずらに面白さを追求すると、言葉に例えるなら語尾のイントネーションを変えてしまい、
本来の意図とは、別の表現になってしまう・・と言う話。

また「楽しい曲」の中身は、実は悲しい・・だったりする場合もある。
殆ど、表題音楽なので、そこには何かしら具体的な物語がある。
楽曲は、その物語を想起させる役割も持っているだろうし、実際、彼らが演奏する際、
その詩なり物語を噛みしめたり楽しんだりしているようにも思える。

民族音楽は、その物語を共有する人達の為に生き延びている。
それは歴史的な意味で、彼らだけのモノだったり人類共通のモノだったり、色々あるはずだ。
彼らの音楽から、学ぶ事は、子孫?に伝えるべき物語に価値を与え続けている事なんだと思う。

ふと、思うのである。この土地に暮らす者の末裔として、伝えるべき物語を、ちゃんと知っているだろうか・・いささか、寂しい話ではあるけど、最近のテーマではあるりさぱ前

Two distant islands meet in The Himalayas.

Ireland0519-1

日本の文化が失われつつあった時代に・なんとなく郷愁を覚える音楽が西洋にあったとすれば、アイルランド音楽だったかも知れません。

例えば「庭の千草」は有名ですが、明治時代に小学唱歌集に掲載されて依頼、今日まで人気のある曲です。もっとも当のアイルランドでは忘れられているかも知れませんが・・

「庭の千草」は、アイルランドの詩人・トマス・ムーアの詩「The Last Rose of Summer 」に日本語の詞を付けたものらしいですが、バラが白菊に変わりながらも「あはれ」の情と言いますか、その美意識は、日本とアイルランドに共通する点を見出す思いがあります。

更に言えば、自分も含め、多くの日本のミュージシャンは、アメリカ音楽の影響を受けたわけですが、ロック・カントリーミュージック・ジャズの発生には、アイリッシュ音楽の影響が極めて大きく、ロマ音楽と共に殆どのポピュラーミュージックの基礎になっている気もします。

今回ご紹介する、パット氏とオーイン氏の演奏は、リバーダンス等で有名になったエンターテイメント性の濃い音楽とは大分違います。 彼らが何を受け継ぎ大切にしてきたのか・時代に翻弄されながらも、守り続けて来た、彼らの美意識が折り込まれた音のように思えます。

今回、会場は、ネパール料理レストランです。アイルランドの伝統的な音楽・そして日本の伝統的な楽器、箏・更には、ヒマラヤの自然に育まれたネパールの音楽と食べ物も併せて楽しもう!と言う企画です。

イベントの最後には、合同セッションも企画しますので、是非、遊びに来て下さい。

6月5~9日・アイリッシュミュージック個人レッスン

http://www.bbird-music.com/patandeoghantour2017.html

パットとオーイン・二人の来日にあわせスタジオMで開催している個人レッスン・今年もあります。
単に演奏方法や楽曲・に限らず、アイルランドの音楽の心に触れる機会だと思います。
興味がある方・初めての方でも気軽にご参加下さい。
今回はオーイン氏の奥さん 瑠香さんの(コンサーティーナ)のレッスンもあり・申し込みはスタジオMでも受け付けています。

個人レッスン

【日   程】6月5日(月)~9日(金)の平日5日間
【時  間】12:00~17:00
【会   場】OKUBOスタジオM 東京都新宿区百人町1-21-17
JR総武線大久保駅より徒歩1分 / JR山手線新大久保駅から徒歩5分 地図
【講   師】パット・オコナー(フィドル) / オーイン・オサリヴァン(アコーディオン、フルートのいずれか) / 丸田 瑠香(コンサーティーナ)
【料   金】1時間6,000円(スタジオ利用料を含む)
【対   象】楽器別の個人レッスンです。上記のいずれかの楽器を演奏される方が対象です。

個人レッスンの詳細:
○1レッスン1時間を1枠とし、お一人さまにつき何枠でもお申し込みいただけます。複数枠お申し込みの場合は連続受講も可能です。
○受講費は当日講師にお支払いください。
○オーイン・オサリヴァン氏のボタンアコーディオンはC#Dのキーですが、これ以外のキーのアコーディオンでもご受講いただけます。

音・についての考察・その2・重力と慣性

音・についての考察・その2・重力と慣性

「よいしょ!」「わっしょい!」とか「えっほっ!」とか・掛け声は・重力と慣性の表現だ。
「よい・しょ」の「よい」は、重力のかかる状態「しょ」は・その反対。
「え・っ・ほ・っ」は「え」と「ほ」に重力がかかり「っ」は・その反対。
「えっほっ」は繰り返し行われる掛け声で、慣性的に、早くなったりする可能性もある。

これは、共同作業などにおいて有効な音楽の使われ方だろう。
労働歌やら・軍隊の行進やら・マスゲームやら・基本的に音楽が使われる。
本来・テンポのキープではなく・力の配分の表現だ。

「よいしょ」の例として、重い鍬で畑を耕す姿を想像してみよう。
「よい」の段階で・鍬は持ち上げられる。初動が一番重く力がいる。
その後・振り下ろすわけだが・重力にそった力の入れ方をすれば、より効率よく鍬は地面に突き刺さる。要するに・最も速度が乗ったヒットの瞬間と言う事になる。

呼吸を合わせる!初期的な音楽の実用化?は、重力と慣性の表現だったかも知れない。

黒人音楽的なビートは、駆け足のように重力とのバランスが連続する感性によって生まれる。
海洋民族的な力配分もまた船を漕ぐ連続性のある動作に似ている。

対して・鼓の「よ~っ!」は、鍬を振り上げるイメージに近いし、音が鳴った瞬間は、鍬が地面に刺さった瞬間に似ている。実際には、呼吸かも知れないが・どちらにしても・慣性に従って連続的に行う行為ではなく鍬の一撃に集中する感あはある。重い鍬なら「よ~っ」は、それに従う。これも、強制労働化したら、一定のテンポで軽く効率良く・となるのかも知れない。

洋の東西を問わず・音楽シーンの殆どは、この原初的な感性を忘れている。
息を吸わずに声を出す・鍬を振り上げずに振り下ろす・
著名な人でも・かなり・そうなっているが・皆・気にしない。

音・についての考察・その1・見えないモノ

特に「音」と名付けなくても認識される・・動物も音に反応するわけだし。
「音」が何かの気配を示す事も、出現する理由も、色々と想像を巡らせ・実証してきた。

そのうち、自らが「音」を出したり・利用したり。その一つが音楽と呼ばれるものになった。
大きな音を出したら周囲にあるモノが共振するとか、反響するとか、目に見えない特別な物を感じたかも知れない。やまびこ・とか。

そのうち、自分たちに見えないけど存在するであろう何か・に、気付いてもらうと思ったかも知れない。その為の大きな音・・遠くまで届きそうな音・周囲の空気を震わせる大きな太鼓の音とか、けたたましい笛の音とか・・

それは供物のようなモノで、儀式が終われば皆で分け喰う。まあ音だから食えないが・・その音を出した本体、楽器を持ち帰えられ、好き好きに鳴らして楽しんだかも知れない。

そうなると今度は、目に見えないモノが相手ではない。身近な仲間達が楽しめるモノなら何でも良い。忘れられているが・見えないモノからのお裾分けだ。

民族・地域によって、見えない存在は随分と遠くにいるか・または、耳が遠いか・・
そう思った人達は、爆音を好んだのかも知れない。

音楽って何だと思っているのか

少し自分の音楽に対する理解の仕方、姿勢みたいなモノを整理してみようかと思います。

題して、音楽って何だと思っているのか・・です。

まあ、人によって音楽と言う言葉から連想するモノが随分違う場合もあるし、
簡単に「これが音楽!」と言いきれるものでもないのですが。

川のせせらぎ・・鳥の声・・風鈴・シシオドシ・・昔から議論のあるところ、
そもそも音楽=音を楽しむ・・では無い!と言う意見も度々耳にします。
主に漢文的な解釈としての、それが多いです。
それに対し、一定の理解は出来ますし、どうでもイイや・・とも思います。
自分としては「人が演奏する」が音楽の条件じゃないか・・と思っています。

自然を模すとか、ヒントを得るとか・・そんなところから、心地よい振動を
自ら作るって辺りから、音楽が始まったんじゃないか・・なんて思うわけです。

勿論、心地よいモノばかりじゃなく、鼓舞するとか興奮を生むとか、
集団が結束する機能もあったりです。まあロック的、お祭り的な世界。

大雑把に振動ですが、大きな太鼓で徐々にテンポと音量を上げて行けば、
自ずと興奮しそうではあります。
反対に、心拍が弱って行くイメージで音も小さくなり間隔も開き、不安定になれば、
何となく「死ぬかも・・」なんて不安な気分に陥るかも知れません。

そのことから考えても、振動が心理に多大な影響を与える!ってのを知るのは、
古代の人にとっても、そう難しい事ではなさそうです。

このテンポや音量ってのも、大きな波形の振動ではありますが、言うまでも無く、音そのものにも当然テンポや音量の同様、心理に影響を与えるわけです。

さらに、振動の組み合わせであるメロディーだったり、二つ以上の音の干渉だったり
人為的な操作が加われば、完全に音楽って事になります。

他者の心理に影響を与える前に、自らを心地よくするとか、鼓舞するとか・・
その為の工夫は、きっと多様になされたわけです。

その後、何百年かは分からないけど、随分と時間をかけ、作法みたいなものが見出され、様式化し、その柵の中で成長し、交配し、淘汰され・・現存するような音楽が出来上がった・・って事なのかも知れません。

おそらくは、その長い時間の中に、愚かにも見落とし、忘れ去られた探求するべき価値、と言うか、別の音楽への道もまた、在ったんだろうなぁ・・などと、無駄に思うのです。

柵の中だけでも十分に探求の価値はあるとも思いますけど興味の尽きない分野です。

年齢や経験によって、心地よい音、求める振動と言うのも変わります。
心理的にグチャグチャな時は、ほぼ騒音みたいなモノが、心に寄り添うのかも知れないし、
意識的に考えれば、対極の音を聴くことにより、心の波風を穏やかにするなんてことも出来得るわけです。

とっ散らかったので、まとめ・・自分、もしくは他者の心理に都合よく働く振動を人為的に作る・・が音楽なのかな・・と現時点では思っているようです。振動と言う中に、歌詞と言うか、言葉も含んだ解釈です。

きざしの音 春の音

日本の伝統的な楽器、箏を中心に篠笛・琵琶・ギター・パーカッションと言う編成で主にオリジナル曲を演奏します。

 

各楽器の音色・旋法・和声感、その「気分」とは何なのか?そして礼拝堂と言う場の「気分」は何なのか?改めてその認識と、融合の可能性を目指す、正に途上にあるコンサートです。

今回は、ゲスト琵琶奏者、塩高和之氏の源氏物語を内包した「春の宴」、ゲスト篠笛奏者、
松尾慧さんの「春の歌」それぞれ、伝統的な邦楽の解釈から新たな方向を見出す試みが成された作品です。

そして箏の音色その物を活かすべく、ギタリストと言う立場から、洋楽的な発想を加え、
昨年完成した内藤眞代のアルバム「かしこ」からの楽曲に加え、
昨年静岡で演奏した箏・篠笛・ギターの為の楽曲「不思議な夜」今回のコンサートに向け篠笛・ギターの為の楽曲、琵琶・ギターの為の楽曲などをお贈りします。