2月24日土曜日19時半から 「夜のはらっぱ」 <ドレミの前の音楽体験>

鍼灸の治療院/太極拳の道場である蓬治療所で毎月開催される「夜のハラッパ」
毎回ゲストを招き、ライブだったり、お話だったり、句会だったり・・なんですが。
今回は私がゲスト?ホスト?・・です。

演奏は以前にもやった事がありますので、今回は「ドレミの前の音楽」
と言うお題で、音楽について語りつつ遊びます。
日頃からご近所には、あらゆるジャンルで持論をぶちまけるので、鬱陶しい存在に
なりつつあるらしい・・と言う噂もありますが、めげずにやります。

聴く側から演奏する側になってもらう分けですが、特に音階だとか技術などは
必要ありません。 ミュージシャンも勿論歓迎。

まあ、クダラナイかも知れないし、意外な発見があるかも知れません。
屁理屈は、こちらから→

永田シェフの特別料理付き。チャージ無し。寄付大歓迎!酒・つまみ等、持ち寄り制。

大久保駅、徒歩一分 http://okubohou.com/   

19時30分頃から誰も居なくなるまで・・解説は以下に・・

ドレミの前の音楽体験?

何のこっちゃ?と言う突っ込みもあると思いますが・・
簡単に言うと

<演奏する>は<ドレミ>が分かんないと無理なのか?
いや・・そんな分け無いじゃん! です。

 

聞こえてますか?

外を歩くと・・いや歩かなくても、人工物の音が聞こえます。
今、真夜中のスタジオに一番大きな音を立ててるのは、エアコン。
蛍光灯などのノイズ・秒針・キーボードを打つ音・煙草の燃える音・
煙を吐く音・衣擦れ・時々表を歩く酔っ払いの声など・・
腹が鳴ったり・・鼻から息を吸う音・・耳鳴りも・・

実際に耳に聞こえない音まで入れると、体が感じている振動は、無数にあるのかも知れません。大概の場合、その音の正体が分かっており、通常聞こえている物であれば、特別な意味も感じないので、無かった事にして過ごします。

機械の壊れる直前の異音とか、例えばミサイルが飛んで来る時など、通常聴くことの無い音には、きっと誰しもが不安になるでしょう。

昔の人達には、ちょっとした隙間風や木の葉の揺れる音は勿論、ネズミや虫の足音さえ聞こえたのかも知れませんし、そこから得られる情報にも、意味があったのかも知れません。

言葉は入れ物

通常、最も聴覚を使っているのは、人の言葉を聞いている時でしょうか。
会話をしたり、テレビを見たり・・です。ご承知のように、言葉は言い方のニュアンスで意味が変わりもします。昔、ある人と電車移動の退屈しのぎに「馬鹿!」と言う言葉のバリエーションを試した事があります。文字の中に出てくる「馬鹿!」は、文脈・対話の相手との関係性で大きく変わりますから「馬鹿!」だけ読んで、悪意を感じとっても意味が無いのは承知の通り。でも声で聞くと、会話する人の関係性や、その意味がある程度理解出来ます。

これは、音楽を聴く上で重要且つ初歩的な感性だと思っています。
ある種の感情を伝える意味では、言葉は包装や入れ物に過ぎない・・・のです。

また日本では、発音のニュアンスは、受け手との感性の違いから正確さに欠けるとの判断なのか、豊富な語彙が用意されています。それはそれで、素晴らしい文化とも言えますが、
豊富な語彙に対する過信が、ニュアンスを聞き取る感覚を危うくする場合もあります。

例えば、政治家が謝罪をする場面。突っ込まれない言葉、小難しい言葉を選び陳謝。
文章で見たら反省してる風でも聴いたら「そうは思ってねえだろ・・」と感じる人も、
多いんじゃないでしょうか? 推し量る文化と言いながら、現実的には言質を取る
慣習が染みついている嫌らしい文化のようにも思えます。

やや批判的な文章になっちゃいますが、<ドレミ>や一般に言われる音楽の訓練は、
語彙を学ぶに似ています。
言葉を覚えただけで、その言葉の感情・感性を理解した気分に陥る・・です。
また感情や感性は、特定の言葉を知らなければ表現出来ない!と断定している様にもみえます。

場合によっては、感情と全く無関係、意味の分からない語彙と早口言葉の羅列が、
<気分>感覚を完全に置き去りにしたまま、音楽として君臨します。
曲芸の様なものとして、人並み外れた身体能力を見せて楽しませる物も否定はしませんが、
音楽が、本来の力を発揮出来ているかは疑問です。
気配を聞き取れない人達にとって、中身の有る無しは関係無いって事なんだと思いますが。

☆自分の生み出す音・・・・・・・・・・・・・・・・・

自分の発する音に無頓着な人ってのも結構居ます。
例えばドアを閉める音が乱暴な人・食器などを無遠慮にぶつける人など。

また他者の会話を遮って話す人。これは、対話する二人の間に立ちはだかるのに似ていますが、対話している人達の気を削ぐ事にも繋がります。
視覚的には気を使えても、音や言葉に関して、悪意無くその様な行動を取る人も随分多くなったと感じます。おそらく言葉からニュアンス<気配>を聴くと言うの感性の欠如なのだと理解しています。

まあ、聴くは、気配、気を配ると言う事で、音楽の基本です。音程が良いとかリズム感が良いは、このずっと後の話で、他者の音を聴く課程で勝手に身につく物じゃないでしょうか。

☆誰かと一緒に音を出す。

ある舞踏の方のサイトに、観客の前で踊ってこそ意味がある・・と書いてありました。
そうなんだろうか?と思いつつ、舞踏の事は分からないので、音楽に置き換え考えました。

音楽に限って言うなら観客の無い演奏に十分意味があります。
自分の出す音を通して普段認識していない自分との対話、或いは楽器との対話はとても大切な事だからです。

そうは言っても、他の人と共に音を出す事は、更に有意義な事です。これは対話に似ています。有意義な対話にするためには、一人きりの演奏が不可欠・・練習とは少し違う物です。

聴衆を楽しませる! は、ミュージシャンのほんの一面に過ぎないのかも知れません。
演説だったり演劇だったり、スポーツだったり、演じ手と観客、立場をはっきりと分けて成立する世界です。

他者には出来ない技術・知識を披露する・・は、サーカス的な娯楽<エンターテイメント>
か、講演会にはなり得ますが、音楽には、共に音を出すことでしか理解出来ない面白さがあると思います。それは特別な能力、教育を受けた人の専売特許では無いのです。

音楽の入れ物、語彙に拘るばかりに、多くの人を単なる聴衆にしてしまうのも惜しい事です。

さて・・一緒に遊びませんか?

 

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